いつポトスが日本に入ってきたのか?
一部の図鑑には“明治時代中期”、“明治中頃”などと記載されています。
しかし、何を根拠にしているのか?までは書かれていません。
そこで、明治時代に発行された書物や雑誌を読み漁り、根拠を調査しました。
“ポトスが日本に渡来した歴史”についてご紹介します。
“渡来は明治時代中頃”の根拠
ポトスが明治時代中頃に日本へ渡来したという根拠は、
1952年(昭和27年)発行『園藝大辭典 第3巻 石井勇義 編』に
「お(わ)うごんかつら黄金葛S.aureus(Pothos aurea)渡來・ 明治中年」と記載されているからです。
“ポトス”が世界で初めてベルギーで紹介されたのが1880年(明治13年)、明治前期の終わり頃です。
日本へ導入されたのはそれから約10年ほど遅れた1900年前後と考えられています。
しかし、東京帝国大学理学部植物学教室教授、附属小石川植物園の初代園長の松村任三が1884年(明治17年)に著した『日本植物名彙』の増補版である、
1906年(明治39年)出版『改正增補 植物名彙 』にはポトスの名前はありません。
そのため、私はポトスの渡来は“明治後期”と考えています。
前期 | 1868~1880年 | 戊辰戦争、廃藩置県 |
中期 | 1881~1903年 | 第一次伊藤博文内閣発足、日清戦争 |
後期 | 1904~1912年 | 日露戦争、明治天皇崩御 |
では、なぜ1900年前後と考えられるのか?というと、他の観葉植物のヨーロッパでの発見年や日本への渡来年と比較することで、ある程度推測できるため。
ヨーロッパより遅く導入される
まず、欧米では同じポトスの仲間と考えられているスキンダプサス・ピクタス・アルギレウス(Scindapsus pictus ‘Argyraeus’)について、『園藝大辭典 第3巻 石井勇義 編』では以下のように記載されています。
スキンダプスス・ピクトゥス・アルギラエウス しらふかづら1859年歐洲へ入る、(渡來・明治中年)
『園藝大辭典 第3巻 石井勇義 編』
スキンダプサス・ピクタス・アレギレウスがヨーロッパに入ったのが1859年(安政6年)、日本はまだ江戸時代です。
一方、“ポトス”が初めてベルギーで紹介されたのが1880年(明治13年)。
江戸時代にも海外から植物は入ってきていましたが、ポトスをはじめ“観葉植物”と言われる多くはまだ日本には入って来ていません。
類似の観葉植物が続々と明治中頃に入る
ポトスはサトイモ科のつる性植物です。明治時代中頃には共通点のある植物が多数輸入されました。
シッサス・ディスカラー
1931(昭和6年)『原色園藝植物圖譜第二卷』にて、ポトスと同じページにある“かづら”の仲間シッサス・ディスカラー(セイシカズラ)Cissus Discolorについて以下記載されています。
我國への渡來は明治廿五,六年頃?と思はれ、その資料としては,明治廿八年度の植物學雑誌(第99號)に大沼宏平氏に依り「ヒマラヤ山中に産し、横濱ボーマー商會及び小石川植物園ニアリ」
明治廿五,六年頃(明治25、26年)とは1892年、1893年で、明治中期になります。
ネペンテス ウツボカズラ(Nepenthes rafflesiana Jack)
ポトスと同じく温室内の吊り下げ装飾、壁面装飾として利用されたウツボカズラ。
『原色園藝植物圖譜第二卷』によれば、
我國に始めて栽培されたるは明治廿二年頃横濱在住のデンスデール氏が培養し居りたるが最初なりと言はる。「うつぼかづら」の和名もその頃出來たものと想像さる。外國に於ては1750年頃より歐洲に移入が開始され、1830ー1860年頃より溫室栽培が盛んになりしと言はる。
明治廿二(22)年とは明治中期1889年。
また『園藝大辭典 第4巻 石井勇義 編』によると以下の通り記載されています。
明治23年の『植物名彙』に出づ。1845年に歐洲に紹介さる。渡來・明治中年,小石川植物園にて明治22年8月横濱在住の英人デンスデール氏より求む。
確かに『植物名彙』にNepenthes Rafflesiana Jack.ウツボカズラ 猪籠草 猪籠草科(英萃龍府)と記載されています。
漢名に由来し、猪籠草(ちょろうそう)と読みます。捕虫袋が猪籠=ブタを入れて運ぶ籠に似ていることから。
意外かもしれませんが、明治中期には多くの種類の食虫植物ネペンテスが入ってきました。1909年(明治42年)横浜植木株式会社の価格表には五圓(5円)以上拾圓(10円)迄と書かれています。
当時の1円が現在の貨幣価値で2.5万円くらいになるため、ネペンテス1株が10万~20万円程したことになります。
明治30年頃の小学校教員や警察官の初任給が月収8~9円なので、なんと1ヶ月の給料と同額!超贅沢品ですね。
当時は大変珍しかった食虫植物が華族、財閥にもてはやされました。
アンスリウム・アンドレアナム
『園藝大辭典 第1巻 石井勇義 編』によると以下のように記載されています。
1853年にニューグラナダのチョコ地方に於いてエム・トリアナ(M.Triana)博士に依つて發見され,1876年にアンドレ(M.André)氏に依つて歐洲に輸入さる、(渡來・明治中年)
ポトスと同じ代表的なサトイモ科植物にアンスリウム・アンドレアナムがあります。ネペンテスと同様に温室で栽培されていました。
“温室”といっても明治時代においてはとても希少で高価なものであり、東京青山官園(現・青山学院大学敷地)、新宿植物御苑(現・新宿御苑)など限られていた場所でしか見ることができませんでした。
明治の観葉植物事情とポトス
当時の観葉植物や洋ランは現在のように庶民が育てられるものではなく、研究用か販売用、華族・財閥、資産家等の高級趣味でした。
例えば以下のようなケースです。
新宿植物御苑 | 宮内省 | |
小石川植物園 | 東京帝国大学 | |
ジンスデル | 英国人貿易商 | |
ボーマー商会 | 米国人貿易商 | |
横浜植木 | 日本人貿易企業 | |
大隈重信 | 政治家 |
新宿植物御苑(しんじゅくしょくぶつぎょえん)
新宿植物御苑とは現在の新宿御苑の前身名称です。
新宿御苑は元々、徳川家康の家臣内藤清成が家康から賜ったお屋敷で、明治時代に大蔵省によって買い上げられたのち、牧畜園芸の改良を目的として1872年(明治5年)内務省所管「内藤新宿試験場」になりました。
試験場内には現東大農学部と東工大農学部の前身となる駒場農学校も設立されています。
1877年(明治10年)に110平方メートルの西洋式温室(無加温)が完成しますが、当時は野菜や果樹栽培がメインだったため、観葉植物についてはシュロチクやサボテンなどわずかでした。
1879年(明治12年)に宮内省所管のもと名称が「新宿植物御苑」になります。
当時、職員であった福羽逸人(ふくばはやと)は、1883年(明治16年)私邸の小さな温室にてフランスから取り寄せたシンビジュームやオンシジュームなどを栽培していました。(日本初の洋ラン栽培者)
1897年(明治30年)には4棟の加温式温室が完成し、バナナ、メロンのほか花卉では主に宮中装飾で使用するための洋ラン栽培がされました。
観葉植物については『福羽逸人 回顧録』にはアンスリウム、ネペンテス、クロトン、カラジウムなどの栽培方法や交配による品種改良の記録があります。
小石川植物園
小石川植物園の正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」です。
元々は、江戸幕府による薬草栽培を目的とした小石川御薬園(こいしかわおやくえん)で、明治時代に東京帝国大学理科大学(現、東大理学部)の附属施設になりました。
先に紹介した内藤新宿試験場は現東京大学農学部とも深い関りがあり、1875年(明治8年)に建てられた無加温室は1885年(明治18年)に小石川植物園に移設されました。
小石川植物園の管理・園長には当時、東京帝国大学の植物学の権威であった矢田部良吉や三好学(2代目)が就いています。
ポトスと明治の研究者たち
ポトスの渡来年が記載されている『園藝大辭典 第1巻 石井勇義 編』には、古渡來品および明治末年迄の渡來品については“牧野博士に従って改訂或いは補入した種類が非常に多い”と書かれています。
牧野博士とは日本植物学の父、牧野富太郎です。
また1931年発行石井勇義著『原色園藝植物圖譜第二卷』のポトスの項目については、小石川植物園第二代園長、三好学が執筆しています。
この『原色園藝植物圖譜第二卷』は理学博士牧野富太郎 校訂、小石川植物園園藝主任 松崎直枝 賛助となっており、東京帝国大学理学部に関わる研究者たちは、ポトスの知識を持ち合わせていました。
残念ながら、いつ、どのような経緯でポトスが日本に持ち込まれたかの詳細な記録は存在しません。
当時、アンスリウムやネペンテス、クロトン等と比べると、ポトスは非常に地味な観葉植物であったと考えられます。
英国人貿易商ジンスデルについては、洋ランの取引を行っていたことくらいで詳細は不明のため飛ばします。
ボーマー商会
ボーマー商会とは1882年横浜にてドイツ系アメリカ人ルイス・ボーマー(Louis Boehmer)が設立した花卉輸出入業会社です。
ボーマーは元々、お雇い外国人として来日し、北海道開拓使としてホップやリンゴ栽培に尽力しました。
開拓者廃止に伴い、横浜で主にユリの球根など日本産の植物輸出の他、温室を建設し洋ランを始めとした西洋花卉の輸入培養を行いました。
1884年横浜市発行の資料によると、鉢花類と一緒に観葉植物も販売していた記述があります。
横浜植木
横浜植木とは、ボーマー商会で仕入れ主任をしていた鈴木卯兵衛が仲間と共に独立後設立した、日本初の植物輸出入業商社です。
- 1890年(明治23年) 有限責任横浜植木商会
- 1891年(明治24年)株式会社横浜植木商会
- 1893年(明治26年)横浜植木株式会社
ユリの球根やソテツの輸出、スイセン、バラ等草花の他、多くの観葉植物も輸入されました。
明治期に渡来した主な観葉植物
1909年(明治42年)8月の横浜植木株式会社のカタログ的役割を果たした定価表には以下、観葉植物が掲載されています。
※価格表の目次には室内觀賞植物(Decorative plants for indoor)と書かれており、コリウスなど現在“観葉植物”の分類には入らない植物も含まれています。
- アンスリウム
- ネペンテス
- スパティフィラム
- アスパラガス
- ベゴニア(レックス含)
- クロトン
- シぺラス
- ドラセナ
- フィカス(ゴムの木)
- ケンチャヤシ
- フェニックス(ロベレニー含)
- ギニアアブラヤシ
- パナマソウ(ヤシ)
- ヘテロパスエラタ(ヤシ)
- プレストエア(ヤシ)
- ラフィアヤシ
- マランタ
- パンダナス
- スマイラックス
- エピスキア・クプレアタ
- ペペロミア
- ストレプトカーパス
- サンスベリア・ゼラニカ
- シッサスディスカラー
- パッションフルーツ
- ギンバイカ
- アマ
- アブチロン
- アラマンダ
- ブーゲンビリア
- コリウス
- フブキバナ
- ポインセチア
- コロカシア
- ヘゴ
- ホヤ
- チランジア
- クリプタンサス
- プラティケリウム(ビカクシダ)
- ツンベルギア
- モンステラ・デリシオサ
- アリストロキア(パイプカズラ)
- フィットニア
- イソレピス
- パニカム
- アローカリア
- リビストニア
- エリカ
- エランテマム
- クロサンドラ
- キチョウジ
- アカリファ
- ガルフィミア
- ブッドレア
- プルメリア
- ペディランサス
- ペンタス
- マダガスカルジャスミン
羊齒植物(Ferns)
※シダ植物は当時の概念では“観葉植物”には含まれていないようです。
- アジアンタム
- プテリス
- ダバリアファン
- セラギネラ
- ネフロレピス
このように横浜植木株式会社の定価表には室内觀賞植物と羊齒植物合わせて60種類以上あり、それぞれの品種も合わせると100以上あります。
しかし、既にお気付きの通りポトスがない!
つまり、現在は最もポピュラーな観葉植物の1つですが、明治時代は研究者以外にはほぼ知られていないマイナーな観葉植物だったと推測できます。
大隈重信
大隈重信は明治・大正時代に活躍した政治家であり内閣総理大臣経験者で、早稲田大学の創始者であることは有名です。
実は大隈重信は洋ランや観葉植物栽培にも熱心で、植物研究家でもあった華族、酒井忠興従三位伯爵と共に、1903年(明治36年)大阪、天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会で自身の温室で育てた植物を出品しています。
(酒井忠興は洋ランのオドントグロッサムを出品)
第5回内国勧業博覧会の記録『珍花図譜』にはオンシジューム等の60種類の洋ランの他、サンスベリア・ゼラニカ、ネペンテス、アンスリウム等のイラストが描かれています。
大隈重信は洋ラン専用、メロン専用、盆栽専用、コンサバトリーと4つも温室を持っていたというのだから相当園芸好きでした。
ちなみに温室は当時“ギヤマン室”と呼ばれていました。
ギヤマンとはイタリア・スペイン語の「ダイヤモンド=dianmante(ディアマンテ)」が語源で、江戸時代のガラス製品全般を指しています。
つまり、温室は板ガラスで出来ていたため、ガラスの部屋=ギヤマンになります。
当然、温室まるごと輸入品なので、観葉植物や洋ランの温室園芸が華族・財閥など超富裕層の高級趣味だと分かると思います。
以下は1901年(明治34年)に描かれた大隈重信邸の温室(コンサバトリー)の様子です。
コンサバトリー(Conservatory)とはイギリスの伝統的なサンルームのことです。
当時の日本では“コンサーバートリー”と呼ばれていました。
絵で分かる限りの観葉植物
- フェニックス・ロベレニー
- サンスベリア・ゼラニカ
- トックリヤシ
次の絵ではパーティーが開催されています。
大隈重信は外務大臣を歴任しており、外国人のご夫婦が描かれている理由も分かりますね。
コンサバトリー内にあった植物名が1904年(明治37年)『食道楽・冬の巻』に記載されています。
熱帯産の觀賞植物を陳列し、クロートン(布哇産大戟科植物讓葉の類=ハワイ産トウダイグサ科の常緑高木)、ドラセナー(臺灣及びヒリツピン産千年木の類=台湾産及びフィリピンの千年木)、サンセビラ(臺灣産虎尾蘭の類=台湾産虎の尾)、パンダヌス(小笠原島邊の章魚の木=小笠原諸島のたこのき)其他椰子類等は其主なるものにて、之れを點綴(てんてい=物がほどよく散らばってる意)せる各種の珍花名木は常に妍(=美しい)を競い美を闘はし、
『食道楽・冬の巻』より1904年(明治37年)
- クロトン
- ドラセナ
- サンスベリア
- パンダナス
- ヤシ類
吊り鉢は洋ランとポトス?
現在でも洋ラン栽培で使用されるチークバスケット(すき間の空いた木箱)に入ったカトレアやファレノプシス(胡蝶蘭)等、ネフロレピスのようなシダ?が描かれています。
絵の一番左上!
ムムム!これはもしやポトスでは?
吊り鉢で葉形が似ているような気がしますが。。。
まとめ
ポトスが日本に入ってきたのは、明治時代中頃であり、根拠は1952年(昭和27年)発行『園藝大辭典 第3巻 石井勇義 編』に「お(わ)うごんかつら黄金葛S.aureus(Pothos aurea)渡來・ 明治中年」と記載されているからでした。
横浜植木株式会社の資料によれば、明治時代の終わりまでにほとんどの観葉植物が日本へ渡来しています。
しかし、ご覧いただいた通り明治時代においては、ポトスはまだまだマイナーな観葉植物だったことです。
ポトスの商業生産が行われるのは昭和30年前後、ゴールデンポトスを導入し生産を始めたのは、株式会社大十園(現・愛知県豊橋市に本社を持つ株式会社プラネット株式会社)です。
ポトスが現在のように一般家庭でポピュラーな観葉植物になるのは、昭和50年代以降になります。
ポトスの歴史に関する記事は以下を参考にしてみてください